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廣榮堂のあゆみ

廣榮堂のあゆみ

「きびだんご」の誕生

廣榮堂は、もとは廣瀬屋という7代ほど続いた瀬戸物屋の後を継ぎ、安政3年(1856)にお菓子屋に商売替えしたのが、廣榮堂の始まりです。

当時の「きびだんご」は、黍の採れるところなら、どこにでもあった日常の食べ物で、黍の粉を蒸して作られ、あんをつけたり、汁をかけて食べ、かき餅のように四角く日持ちが悪いものでした。明治の風俗史研究家の紅迺屋お色という人が「きびだんご考」というものに、安政の初め、武田半蔵(廣瀬屋の隠居)、笹野一方(通称髯長)という狂歌師、信楽屋(伊吹山のモグサ屋)の隠居の3人で鳩首工夫の上、遂に案出して茶の席に用い、好評を得たのが濫觴(起源)なりと記しています。

「きびだんご」をお茶菓子として、また旅の友にもなるように、日持ちを良くするためにさらに工夫。黍の変わりにもち米を用い、当時は貴重品だった上白糖と水飴を混ぜて柔らかい求肥にし、風味づけに黍粉を加えることで、現在の「きびだんご」とほぼ同じ製法が完成しました。「廣瀬屋」はお菓子屋へと商売替えし、「広くこれを伝え、味の良さを知らせることで、自然といいものは売れて繁盛する」という信念から屋号も「廣榮堂」に改めました。さらに当時の池田藩筆頭家老で武家三茶人のひとり、伊木忠澄(三猿斎)に指導を賜りながら「きびだんご」を茶席向きに改良を重ねます。これを池田藩に献上したところ、藩主から備前の国印である釘抜き紋の使用の印許を頂きました。「きびだんご」が岡山を代表する銘菓として、藩主に認められたのです。

明治18年(1885)に明治天皇が岡山に行幸された際、初代・浅次郎は自らつくった「きびだんご」を献上。「日の本にふたつとあらぬ吉備団子むへ味はひに名を得しや是」と御製を賜りました。天皇から「日本一のきびだんご」とおっしゃっていただいたのです。

  1. 創業時のきびだんごは串に刺して売られていました。岡山では現在も注文生産で販売しています。※現在販売休止中

  2. 昭和35年頃の中納言本店。江戸末期の安政3年(1856)、岡山城下町の中心へ続く山陽道(西国街道)に面したこの場所で、廣榮堂は創業しました。

  3. 岡山市東山玉井宮に明治30年に初代武田浅次郎によって寄進された石鳥居。

革新の人 ━ 初代・浅次郎、真価発揮

明治24年(1891)、山陽鉄道が岡山まで開通した時。新たな販売所として、この鉄道に目を向けました。それまでの「きびだんご」が、串にさしたものが多かったのを、客の出入りの多い岡山駅で立ち売りするために、箱詰めにし、一個ずつ四角い棧の中に入れる工夫をしました。

岡山県出身の作家・内田百閒は廣榮堂の「きびだんご」、特に串に刺したものが大好きだったともいわれています。その百閒が作品『夜明けの稲妻』の中で、「中納言の吉備團子屋は廣榮堂と云う。廣榮堂では昔、細い竹串にさした吉備團子を店で賣ってゐた。今の様に折に詰めたものばかりではなかった様である。折に詰めると云えば、折の中に團子と團子がくっつかない様に經木の中に團子が行儀よく列べてある。私がまだ上京して東京の學校へ這入らない前、岡山名物吉備團子を夏目漱石先生に贈ったところ、請けとったと云うお禮の手紙を戴き、その中に、團子は丸いとばかり思ってゐたが、吉備團子は四角いのだねとあった。經木の棧の格子の中で四角くなったのである」と記しています。当時1箱(9個入り)5銭の「きびだんご」は大人気。1日平均14円ぐらい売れました。当時にしてみれば、かなりの売上げだったようです。

明治27年に勃発した日清戦争は、広島に大本営が置かれ、全国から兵隊が山陽線を通って集結し、宇品港から戦地に向かいました。ここでも浅次郎は持ち前の才覚を発揮。宇品港へ出かけ、自ら桃太郎の扮装をし、『日本一の吉備団子』ののぼりを立て、「鬼ヶ島を成敗した桃太郎の皆様、凱旋祝に故郷へのお土産は岡山駅で売っている吉備団子」と大宣伝したのです。1箱5銭の「きびだんご」は飛ぶように売れました。これを機に岡山の「きびだんご」は、岡山を代表する名物として全国へその名を馳せるようになりました。玉井宮東照宮(岡山市東山)には浅次郎が明治29年(1896)に寄贈した石の大鳥居が残っています。

(写真左右)昭和初期に発行された
お菓子券。

教育人 ━ 2代目・武田充平、
学の人 ━ 3代目・常夫

明治32年(1899)2代目・充平が当主になります。創業時4、5人の職人が、当時は40~50人になっていたといわれます。2代目・充平は速水流の茶人であり、書も巧みな教養人でした。当時、「きびだんご」「調布」をはじめ「曙」「山の幸」「鶴の卵」といったお菓子がつくられていました。

太平洋戦争後の昭和26年、隠居していた2代目・充平は商工会議所による、キューバ糖とタピオカ澱粉での岡山名物の復活の依頼を、粗悪な材料で「きびだんご」はつくれないと断ったという話が残っています。戦中、戦後と長期間にわたって「きびだんご」をつくることができなかったにもかかわらず、偽物づくりに手を出さなかった廣榮堂の「真っ当なものづくり」を示すエピソードのひとつです。
昭和4年から始まった世界大不況のさなか、3代目・常夫が家督を継ぎます。暇があれば本を読んでいたといわれるほど、学問好きの人だったようです。しかし、昭和13年(1938)、3代目・常夫は若くして病死します。妻貞子が店を切り盛りするも、廣榮堂にとって苦難の時代が始まりました。

昭和16年(1941)物資統制令、昭和17年(1942)食糧管理令が相次いで施行され商売は休眠状態となりました。幸いなことに、火を使わないで食することのできる求肥が軍の携行食として使われ、細々と製造を続けることができました。しかし、昭和20年6月29日岡山大空襲で家屋敷は灰燼に帰し、終戦を迎えるも、商いは開店休業状態です。昭和26年頃から徐々に店は復興しましたが、しばらくは老舗として生き残れるかどうかの瀬戸際が続きました。

右から3代目武田常夫、妻貞子、長男修一、2代目武田充平

商店から企業へ、健康・安全志向へ

昭和37年に武田修一が住友信託銀行を退職し、32歳で4代目に就任。当時、商いは年に2千万円、従業員は10人、店は中納言店が1店と岡山駅の弘済会(キオスク)で販売という状況でした。昭和30年代後半は高度成長の時期で、大量生産・大量販売がうたわれさまざまなマーケットが開拓される中で一店舗体制を見直し、販路拡大を目指しました。モータリゼーションの到来を予測し、当時オープンしたばかりのドライブイン、フェリーボートの売店、後楽園、倉敷美観地区などの観光地といったところに、次々と販売所を増やし、販路を広げていきました。さらに昭和41年、岡山市藤原にオートメーション方式での生産が可能な工場を建設し、量産化への道を開きました。

昭和47年山陽新幹線新大阪~岡山間が開通し、年間売り上げが220%、瞬間伸び率600%を記録し、年商7億9千万円を達成しました。昭和49年(1974)から2年間、朝日新聞に連載された有吉佐和子の小説『複合汚染』が、4代目・武田修一を健康・安全志向へ本格的に向かわせる契機となりました。さらに、新幹線景気で「きびだんご」をつくる店が20社にも急増し、一部の粗製品が問題化したことも背景にありました。

  1. 四代目直筆による「商売の心得」。

  2. JA岡山高松支所の生産者のみなさん

  3. 昭和52年に発売した「むかし吉備団子」。岡山市高松地区の農家と契約して栽培したもち米を使用。箱に秋田杉使用。

昭和47年、特別栽培によるもち米を生産するために、御津郡御津町(現岡山市)に廣榮堂農園を設立。一方、昭和48年から、岡山市高松農協(現JA岡山高松支所)とタイアップし、無農薬の特別栽培によるもち米づくりを農家に委託し、品質の向上に取り組みました。特別栽培は普通栽培の何倍もの手間がかかりました。全国的に見ても、この取り組みは先駆的事業でした。『昔づくり』にこだわり、3年の歳月をかけ、昭和52年に発売を開始した「むかし吉備団子」は、こうして栽培されたもち米を主原料に、昔ながらの製法に徹しています。パッケージも秋田杉を使うなど、本物志向の人と自然にやさしい「きびだんご」です。

そして時代は高度成長期を経て、昭和63年の夢の架け橋と呼ばれた瀬戸大橋の開通を迎えます。中国縦貫自動車道、山陽自動車道の開通や岡山空港の開港に合わせ全国より多くの観光客を集めました。そして与島京阪フィッシャーマンズワーフに実演販売の塩飽亭をオープンし「水軍餅」を販売。与島プラザと合わせ連日多くのお客様にお買い上げいただきました。また、倉敷美観地区他県内の主要売店では、手塚治虫氏に依頼したキャラクターパッケージのきびだんごが飛ぶように売れ、廣榮堂は観光みやげ商品としてのきびだんごの製造販売において開花の時期を迎えました。

  1. 岡山市藤原にオートメーション方式での生産が可能な工場を建設し、量産化への道を開きました。

  2. 旧藤原工場製造風景

  3. 旧藤原店全景

五味太郎氏の「元祖きびだんご」

桃太郎伝説の話は岡山だけでなく日本全国にあり誰でも知っている日本を代表するお伽噺です。
「桃太郎のきびだんごを岡山だけでなく全国の子どもたちに『桃太郎のきびだんご』として食べてもらいたい。」
その想いが世界的絵本作家・五味太郎氏との出会いにより新しいパッケージを実現。平成5年、五味太郎氏イラスト・デザインの「元祖きびだんご」が誕生しました。

『岡山のきびだんご』としてではなく、『桃太郎のきびだんご』として日本中の子どもに食べてもらい、心と身体に良いものをという願いをカタチにしたのです。当初年間20万箱の売上を予想したものが、結果的には200万箱を売り上げるヒット商品に成長しました。パッケージからコミュニケーションが広がって行く。日本中の子どもたちが「きびだんご」で元気になっていく。私たちの夢は大きく広がっています。

平成6年、武田浩一現社長が住友信託銀行を退社し、廣榮堂に入社しました。この頃には国内外で色々なことが起きました。前年の平成5年には夏の低温長雨の気象となり各地の田園地帯では不稔米が発生。日本は戦後最悪の凶作の事態となり、国内産米価は3倍に急騰。同年8月に誕生した細川政権は、12月に米の輸入自由化を決定しました。また、平成5年当時の為替水準は1ドル90円台という史上初の円高水準となり、日本の製造業が積極的に海外に生産拠点を移しだしたのもこの頃からでした。また、インターネット黎明期に当たり新しいビジネスの台頭や、コンビニエンス・ストア等の流通小売・物流革命が1990年代後半にかけて急速に進行しました。

一方岡山では、平成6年夏には前年と一転して水不足の夏を迎え、倉敷・水島地区等で取水制限が行われました。続く平成7年1月には、阪神淡路大震災が発生、翌平成8年には岡山県から病原性大腸菌O157が発生するなど、観光産業や食品産業にとって新たな試練の時代を迎えました。

その時代にあって、廣榮堂は県外販路拡大と同時に、「元祖きびだんご」の新商品開発も手がけます。平成7年にミネラルと栄養を豊富に含んだ黒糖を使用した「黒糖きびだんご」を販売。さらに平成9年には伊豆大島の製塩所から、日本の昔からの製法で海水から製造している自然海塩「海の精」を使用した「海塩入りきびだんご」を発売しました。また平成10年には倉敷に新しくオープンしたチボリ公園向けの商品開発と販売を行いました。それらの商品開発に当たっては、五味太郎氏にパッケージデザインを依頼してきました。五味太郎氏という絵本作家と廣榮堂との繋がりが急速に広がり、その後のロングセラー商品のベースができあがりました。

  1. 五味太郎氏によるオリジナルパッケージ。

  2. 伊豆大島の製塩所における「海の精」製造風景

「ものづくりの場」と「組織・ひとづくり」への取り組み

県外大手流通業への販路拡大を模索した1990年代後半。ISO・HACCPや財務、雇用面においても広く通用する新しい業務標準が求められる時代を迎えました。様々な試行錯誤を経て平成12年、伝統的製法と人の和を残しつつHACCP(食品の衛生管理方式)に準拠した独自スタイルの本社工場が完成しました。

「きびだんご」の味を落とすことなくつくるために、自社の製法にあったオーダーメイドの機械によるライン化を行うことで、伝統の和菓子製造技術の良さは残しながら、最新FA技術と人の知恵の融合により、衛生・品質・生産性などあらゆる課題をクリア。しかも地球にやさしく「安全で清潔な」廣榮堂の和菓子づくりを実現しています。エネルギーは蒸気ボイラーにLPG、空調機には都市ガスというクリーンエネルギーを用い、工場から排出するCO2・NOxの低減を図っています。さらに、廃水汚泥を専用棟で完全廃棄処理するなど、地球環境保全に対応した排水処理技術も導入。

しかし、近代的な工場が完成し、生産性は大きく向上。快適な職場環境が実現したにもかかわらず、大きな問題にぶつかりました。髪の毛の混入や入り数不足といった不測のクレームでした。HACCPに準拠し、効率や導線を最適化した最新の工場であるという安心感が、従業員の心に「気のゆるみ」がつけいる隙を生み出したのです。部門の壁が互いの顔の見えない職場を生み、他の社員がどんな仕事をどのように進めているのかがつかみにくくなったのです。廣榮堂の「伝統」ともいえる社員間のコミュニケーションが不足していきました。廣榮堂は基本的な解決に向け、いくつかの手を打ちました。

2001年に、品質向上のための6箇条作成と周知徹底を図るとともに、クレーム対応を担当者責任制へと変更。2003年には、部門の壁、年齢の壁によるコミュニケーション不足を解消すべくピラミッド型組織を改めチームリーダー制を導入。若手社員を登用することで積極的な意見交換を実現。日報は手書きとし、上司が毎日やはり手書きでチェックする制度に変えました。

また、平成14年10月には新しい社内報「廣榮堂タイムズ」を発刊。情報を縦のラインにとどめず、横にも広げようと創刊された「廣榮堂タイムズ」は製造スタッフが担当者となり、ネタ元に取材して記事を作っています。アナログで素朴ではありますが、創刊から毎週欠かさず発行され、2007年4月には150号を突破しました。「継続は力なり」。廣榮堂の現場で何が起き、どのように進化してきたのかを表す軌跡といってもよいでしょう。

2000年には、休刊していた月刊情報誌「ひろば」も復刊された。従業員の結婚や出産など楽しいトピックスを盛り込んだ内容です。ITを使って合理化を図るだけがすべてではありません。こうした施策の根底にあるのは、「モノ作りは人づくりから」という哲学です。短期的には非効率であっても、中長期的には互いをより深く知ることで広い年次を抱える家族的なチームワークを高めようと考えたのす。

  1. 平成12年完成した、厚生労働省HACCP承認制度に準拠した本社工場。

  2. 平成14年10月、製造・営業・販売をつなぐ週刊社内情報誌「廣榮堂タイムズ」(創刊号)。

  3. 全従業員に配布される情報誌「ひろば」。

世紀を超えて、思いを形に心を繋いで

「ものづくりの場」「組織・人づくり」の集大成として、「人の交流の場」として藤原新店舗構想に着手しました。日本の風土を感じ、お客様と社員、社員同士が部門を越えて交流することのできる場づくり。それは、150年の古民家を再生するというよりも、新しい価値を生み出す作業でもあるのです。平成18年の棟上式には、地域の多くの方に参加していただくことが出来ました。新藤原店は、古民家再生に情熱をもって取り組んでいる建築家、素晴らしい技を持つ大工さんが、木の彫刻家をはじめとするクリエーターの力が融合して出来上がりました。

平成19年には創業150周年記念事業として、五味太郎氏による新作『ももたろう』絵本を制作、地域図書館等への寄贈を行いました。お客様と家族的なふれあいの場であるとともに、地域コミュニティ再生の基地でもある新藤原店建設。そして「おかげさまで150周年」を合い言葉に、廣榮堂で働く仲間が社員総出で手づくりのおもてなしをさせていただいた、記念式典とルネスホールでの感謝祭の開催に取り組みました。これら記念事業には多くのお客様に楽しんでいただきました。

  1. 平成19年4月6日、創業150周年記念出版。
    人気絵本作家・五味太郎氏の新作「ももたろう」絵本。

  2. 平成19年3月22日完成した新藤原店。

後世に繋ぐ、新たな挑戦

2010年、廣榮堂は昭和49年に設立された雄鶏書房有限会社から事業を引き継ぎ、大正時代の面影を残す建物の改装プロジェクトに着手。社内で店舗構想について意見を交わし、試行錯誤を続ける中で「刻の美術館」というコンセプトが生まれました。そのコンセプトの実現に向けて多くの方々の知恵と技術を集結し、平成26年に倉敷雄鶏店はリニューアルオープンしました。建築、アート作品、音響、菓子売場やカフェをはじめ、店舗全体をアート空間として演出し、その空間でお菓子をお買い求めいただき、併設したカフェスペースを楽しんでいただけます。

新しい商品の開発にも挑戦を続け、平成22年の「きなこきびだんご」の発売を皮切りに「玄米きびだんご」「抹茶きびだんご」「白桃きびだんご」「スポーツきびだんご」などのきびだんごシリーズを発売し、老若男女に愛される商品づくりに力を注いできました。

新たな事業領域への挑戦として平成30年には商業施設「ブランチ北長瀬」の開業に合わせて「CAFE Tokidoki KOEIDO」をオープンしました。「和菓子と暮らす」をコンセプトに購入した和菓子やカフェメニューをその場で楽しんでいただくなど、幅広い世代のお客様に和菓子をもっと身近に感じていただけるよう工夫しました。お客様の日常に寄り添い、「“ときどき”和菓子を、“ときどき”行きたくなるお店」を目指して四季折々の和菓子を提供しています。

160周年を迎えた廣榮堂の一大プロジェクトとして中納言本店の改装リニューアルにも着手。建設に向けて海外の美術館や商業施設の視察を行うなど、構想に4年の歳月をかけました。“伝統と革新”を体現するために釘を使わない木組みの伝統的な日本建築でありながら、内装にスペインやフランスの美術館から得た発想を取り入れました。従来の売り場に加えて、中庭の見えるカフェスペース「廣榮堂茶房 ひねもす」、茶室、商品開発を行う「koeido food desaign labo」を併設し、お客様一人ひとりの大切な一日に食を通じた喜びを提案できる場となっています。

廣榮堂はいま、国境を越えて世界中のお客さまに和菓子を届けることにも意欲的です。2014年から始めた、東南アジアでの商品展開リサーチやハラル認証の取得、パリやシンガポール、ニューヨークでの羊羹コレクションに出展を行うなど様々な領域に広げています。

益々激しくなっていく時代変化の中でこれまで160年の歴史を育んできた先人の想い、情熱、夢を受け継ぎ、伝統を守り、多くのつながりと広がりを大切にしながらも土産物屋から和菓子屋への転換を進め、「和菓子の未来を作っていく」という想いを持ってこれからも挑戦を続けてまいります。

改装リニューアルした中納言本店

4年の歳月をかけ、改装リニューアルした中納言本店

※お断り  本文中に「有機無農薬栽培」・「有機農法」の記述がある場合がございますが、これにつきましては、歴史的経緯として昭和47年~昭和52年当時のまま記載させていただきました。尚、現在の表記としては「特別栽培」または「減農薬栽培」となります。

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